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ポル・ポトの大虐殺
〜総人口の1/3を殺し尽くした戦後最大級の虐殺〜
 雲一つない炎天下に広がる朽ち果てた白骨の群れ。殺伐とした荒野には、直径3メートルほどの穴が幾つも並び、その中に数十体の白骨化した遺体が、無造作に投げ込まれている。緑色の汚水にまみれて累々と積み重ねられた腐乱死体からは、ものすごい臭気が漂っている。そこら中、死者の白骨とカサカサになった衣類の切れ端が散らばり、頭上には、人間の毛髪でつくられたと見られる鳥の巣が潅木の茂みに見える・・・この世のものとは思えぬ壮絶な地獄の風景が地の果てまで延々と連なっている。
 これは「キリング・フィールド」という映画のワンシーンだが、しかし映画だけの話ではない。豊かで恵まれた農業国と言われ、インドシナのオアシスとうたわれた国で、現実に起こった出来事なのである。ポル・ポト時代のカンボジアでは、まさに、戦慄すべき地獄がこの世に現出したのである。わずか4年間で数えきれないほど多くの人間が殺され、破壊と憎悪が吹き荒れたのだ。生き残った人々でさえ、その心の奥には、永久に拭い去ることの出来ぬ悲しみと苦痛が刻み込まれたのである。
 総人口800万足らずのこの小さな国で、実に200万から300万近くの人間が虐殺されたのだ。正確な死者数は、今尚もってわからない。革命が盛り沢山と言われた20世紀でも、これほど高い比率で虐殺が行われた例は、カンボジアを除いてどこにもない。この前代未聞の大量虐殺は、わずか4年間で達成されたのである。知識人と言われた人々にいたっては、実に6割以上が殺されたという。

 不条理で得体の知れない恐怖が、人々を襲い、悪魔にしかなし得ない残酷な行為が行われたのである。猟奇的とも言える大虐殺はいかにして起こったのか?

* ベトナム戦争がもたらしたもの *
 19世紀、カンボジアは、ラオス、ベトナムとともに、フランスの植民地であった。ところが、1953年にこれらの国々で独立運動が起こると、それは、第一次インドシナ戦争に発展した。フランスは、敗れ、カンボジアの独立をしぶしぶ承認することとなった。この時、この国は、シアヌーク王が国家元首となって政権を握り、やや左寄りの路線を歩もうとしていた。一方、隣国のベトナムは、共産党の指導する北と親米派の南に分断され、政権争いを始めていた。ラオスでも同様で、親米派と反親米派の対立が続いていた。特にベトナムでは、北と南の対立は、武力衝突にまで発展し、65年、南からの援軍要請を受けたアメリカが参戦すると、今度は、北を中国やソ連が後押しするという全面対決の様相を見せ始めた。
 ベトナム戦争は、その後、激化の一途をたどり、アメリカは、どんどんと泥沼に足を踏み入れて行くことになる。
 追い詰められ余裕のなくなったアメリカは、北への大規模な爆撃を開始した。枯れ葉剤、ナパーム弾などありとあらゆる非人道的兵器を無差別に使用していったのである。
 左よりの路線を歩むカンボジアは、この頃、中立的立場を取っていた。しかし、南ベトナムが勝利すると、自国が脅かされる恐れがあった。しかも、南ベトナムは、自由クメールと名乗る反シアヌーク派の拠点にもなっていたのである。
北への執拗な爆撃を繰り返すB52戦略爆撃機、日によっては50回も出撃した。 
 そこで、シアヌークは、ベトナム国境寄りのカンボジア領内に北ベトナム軍の補給基地をつくり、軍隊の駐留、移動などを秘密裏に認めていた。
 北ベトナム軍にとって、カンボジア領内は、安全地帯となった。ここに留まる以上は、爆撃を受ける心配はなく、同時に、カンボジアの米なども補給出来るのである。しかし、こうした一連の関係は、カンボジアをベトナム戦争に巻き込んでいくことを意味していた。
苛烈化するベトナム戦争、やがて、戦場は、カンボジア国内まで広がった。
 アメリカとしては、北ベトナムを完膚なく叩き潰すためには、カンボジアを手なずけ、この方面での爆撃を有利に展開させる必要があった。そこで、アメリカは、親米派のロンノル将軍に巨額の軍資金を提供し、バックアップをすることを約束して、シアヌークを追い出すことを画策したのである。1970年、シアヌークがフランス休暇旅行の最中、クーデターは起き、それは見事成功した。ロンノルは政権を樹立し、追放されたシアヌークは、そのまま北京へ亡命してしまった。
 カンボジアがロンノル政権になり、もはや、憂慮すべき事態もなくなったアメリカは、気がねなく、北ベトナム軍の補給基地に爆撃を行うことが出来るようになった。その結果、たちまち30万のカンボジア人が死に、200万以上と思われる避難民が発生することとなった。
 一方、亡命したシアヌークは、国外からロンノル政権打倒を呼び掛けていた。これに賛同したのは、北ベトナムと国内に潜伏するカンプチア共産党、つまり後のクメール・ルージュだった。これによって、今まで、平穏だったカンボジアにもついに戦火が飛び火することになる。
ロン・ノル(1913ー1986)シアヌーク政権下では、国防相だった。
 ベトナムでは、中国、ソ連などの援助を受けた北ベトナムが、頑強に戦い抜き、史上まれに見る苛烈な局地戦が展開されていた。これに対し、カンボジアでは、クメール・ルージュが国内でゲリラ活動を展開し、ロンノル政権を内部から揺さぶった。かくして、カンボジア国内は、熾烈な戦闘が至る所で繰り返され、5年越しの内戦状態に突入した。
 内戦によって、首都プノンペンは、物や食料の不足は深刻化し、民衆の不満は高まるばかりで、おまけに、テロと陰謀が渦巻き大混乱に陥っていた。国土の6割がたは、解放勢力の手に落ち、主要幹線は、いたるところで切断されている有り様だった。北ベトナム軍は、カンボジア領内に入り込んでいたので、それを追撃してきた南ベトナム軍、アメリカ軍と間で猛烈な戦闘を展開していた。大被害を被ったのは、カンボジア人で、彼らの中には、ベトナム人への憎悪が高まり、ベトナム追い出し政策に火をつけることになった。クメール・ルージュとベトナム共産軍との間でも、何度も武力衝突が起こり、もはや決裂は明らかとなった。
* ついに放たれた狂気 *
 やがて、膨大な軍事費と甚大な被害に疲弊したアメリカは、ベトナムから完全撤退することを決定してしまう。これは、言わば、敗北宣言にも等しいものであった。1975年、アメリカ軍が撤退してしまうと、後ろ楯を失ったロンノル政権はたちまち崩壊していった。

 そして、これに代わるように政権を握ることになったのが、クメール・ルージュ(赤いクメール)と言われるポル・ポト派だった。かくして、恐るべきパンドラの箱は、開かれたのである。ギリシア神話で、女神が、誘惑に負けて開いた瓶からは、ありとあらゆる災いが放たれ人々を不幸のどん底に追い落とすという話が現実のものとなったのだ。      
 1975年4月17日、その日が恐怖政治の始まりだった。この日から丸4年間、狂気と破壊、殺戮と憎悪の嵐がこの国に吹き荒れるのである。
 今まで常識と思われたことが一切通用しなくなっていくのである。この時、まもなく、空前絶後の大虐殺が始まることになろうとは、誰が予想し得たであろうか?
トラックに乗ってプノンペンに入城してきたクメール・ルージュの兵士
 この日、彼らは、トラックに乗って首都プノンペンに入って来た。彼らは、すべて十代かそこらの兵士で、黒の農民服姿のまま銃を片手にしていた。
 ついに、内戦が終わったと信じた民衆は、歓声を上げて彼らを笑顔で迎えた。しかし勝者のはずの彼らには、笑いも開放感もなく、何が気に入らぬのか不機嫌そうに押し黙っているだけであった。
強制退去によって200万人いた首都プノンペンは、ゴーストタウンと化した。
 しかし、まもなく、民衆も歓声どころではなくなった。全市民を都市から強制退去し農村に移住させるというのである。その理由にしてもバラバラで、B52の爆撃があるから疎開させるのだとか、都市では食料が足りないから農村に移すだけだとか、退去は、一時的なものですぐに帰って来られるとかいう支離滅裂な説明がなされるだけだった。民衆は、着の身着のままで農村部に追い立てられることになった。これらは、実に迅速に実行されたので、ほとんどの人は国外に逃げることも出来なかった。そのうち、強制退去の実行それ自体が冷酷極まりないものになっていった。
 問答無用となり、もし、少しでも逆らえば、容赦なく殺され出したのである。病院に入院している患者でさえ、ただちに、出て行くように命令された。
 何千という病人が容赦なく追い出された。中には、瀕死の重病人もいたが、彼らは、輸血用の血液や点滴の袋をぶら下げながら運ばれていった。
 瀕死の子供を抱き上げ、泣きながら歩いてゆく父親、両手両足がなく、もがきながら連れて行かれる病人たち・・・それは、まさに絶望的で信じられない光景であった。
クメール・ルージュの兵士たち、ほとんどが、13才程度の子供ばかりだった。
 彼らは、わずかな食料と身の回り品だけを携えて、徒歩で移動せねばならなかった。それは絶望的な行進であった。中には、一か月以上も歩かされた集団もあった。こうした無理がたたって、体の弱い赤ちゃんや老人などが、次々と死んでいった。
 それと、同時に クメール・ルージュがしたことは、新国家建設のための協力者を集めることだった。前体制下の将校、医師、教師、技術者、僧侶などは名乗り出るように命じられた。また、海外に留学している学生にも呼び掛けられたのである。カンボジアを理想の国家にするために、君たちの知識、技術力が必要だとかいうスローガンが掲げられ、その言葉を信じ共感した人々が続々とポルポトの元に集って来た。
 これら集まって来た人々は、プノンペンに帰って国家建設のため働いてもらうとか言われトラックに乗せられた。しかしこれは恐ろしい罠であった。彼らは、途中で道路上で投げ出され、機関銃で蜂の巣にされる運命にあった。留学半ばにして、海外からわざわざ帰国した女子学生たちも殺された。彼女らは処刑されるために帰って来たようなものであった。男女の教員を、ひとり残らず、高い絶壁から突き落として殺してしまったこともある。
 音楽・映画、恋愛などは、資本主義的行為とされ全面的に禁止された。貨幣もなくなり、米がそれに代わるものとなった。クメール・ルージュは、人々の心に安らぎを与えている仏教すら潰そうとした。宗教は全面的に禁止され、かつて大事にされていたお坊さんは、寄生虫とか黄色い衣装を着た怠け者とか蔑まれた。僧侶は強制的に還俗させられ、農作業やダムの工事現場に追いやられた。そして寺院は、ことごとく豚小屋や集会場に早変わりしてしまい、モスクは倉庫と化した。押収したコーランはトイレットペーパーになった。教育も一切必要なかった。授業はあるにはあったが、一日30分程度、それも革命の歌やスローガンを連呼するための時間だけだった。国民に課せられた使命は、農作業や土木工事など、ただアリのように黙々と働き続けることだけだったのだ。

* 恐怖の子供兵士 *
 ポル・ポトの目指したものは、一体何だったのか? 彼は、フランス留学中に、極端な左翼思想に染まっていったと言われている。
 彼が入党したフランス共産党は、ヨーロッパの数ある共産党の中でも、最も過激でスターリンの思想に傾倒していたものであった。
 絶対的な権力による政治支配、異端者の完全抹殺と有無を言わさぬ政策の押し付けなどは、スターリン特有のものである。スターリンは、1930年代に2千万人という血の粛清を行い、恐怖の政治を現出した独裁者としても知られている。
ポル・ポト
(1925ー1998)
 ちょっとした反革命的言動、根も葉もない噂、果てはスターリン個人の好き嫌いのみで、多くの人間が深夜に引き立てられ銃殺されたのである。当時、人々は、秘密警察による深夜のノックに震えおののいたという。それは、あたかも、中世ロシアのイワン雷帝のオプリーチニク(親衛隊)の伝統を受け継いでいるようにも見えた。
 過去からの一切合切を切り離そうとしていたポル・ポト政権にとって、旧体制文化の名残りでもある人間は、すべて病原菌なのであった。
 病原菌は、速やかに駆除しなければならないというのが彼らの理論だった。踊り子や歌手を始め、僧侶、医者、看護婦、教師、芸術家に至るまで、技術を持つ者、知識人は、すべて処刑の対象となった。
 都市に住みメガネをかけているだけで知識階級と見なされ殺されたのだ。
泥にまみれて累々と散らばる白骨の群れ
 それは、まるで腐った果実は、まとめて処分するように、無造作に一カ所に集められて殺されたのである。
 このように知識人だというだけで大量に処刑された例は、世界にも前例はない。しかし、このような政権が、まともに運営されるはずもなく、やがては行き詰まり、絶望的な中で崩壊していくことはもはや明らかであった。
 その結果、頭の中に旧来の知識を全く持たない子供だけが重視されるようになっていった。大人は、信用出来ず、信じられるものは、子供だけになった。
 子供は、大人よりも重大な仕事につくことになり、子供兵士、子供看守、子供医師という特異な存在が次々と生み出されていったのである。
虐殺革命の正体、
人間の尊厳とは何なのか?

 子供医師の中には、全く字も読めないような子もいた。彼らは、名目だけの3か月程度のにわか仕込みの教育を受けて、医療業務をまかされたのである。子供医師にかかり注射を受けた者の多くは傷口が化膿した。医療の知識も何もない子供が、ろくに消毒もせずいきなり注射をしようとするのだから当然である。多くの者は、傷口が紫色に腫れ上がり敗血症になって命を落としていった。彼らは手術すら行うこともあった。しかしその実体は、興味本位の人体実験と何ら変わりのないものであった。生きたまま柱にくくりつけられ、面白半分に大きな切り口をつけられ、傷口を両側に押し広げられて死んだ哀れな患者もいたという。

 子どもはスパイとしても使われた。周囲に誰もいないと油断して、革命への不満を漏らそうものなら命取りとなった。小さな子供が家の床下などに潜んで聞き耳を立てているかもしれなかったからだ。うっかり漏らした不平や不満、それを聞いた子供が、組織に通報しようものなら、例え、身に覚えがなくても一巻の終わりなのである。
 死は日常の中に入り込んでいた。生活に死というものが常に密着していた。なぜ? どうして? という疑問は感じてはならないのだ。うっかり、英語とかフランス語を口にしようものならそれで殺されるのである。じゃがいもの袋に入れられて川に沈められるかゴミのように銃の台尻で殴り殺されるかどちらかであった。正しいこと、常識あること、理性ある行いなど、もうどこを探しても存在しなかった。
 ある夜、囚人全員が連れ出されて処刑されたことがあった。しかし、その中に、からくも命を取り留めることが出来た囚人が一人だけいた。
  それは、なぜか? 彼は、元英語の教師をしていたが、イソップ物語や童話の話を語って聞かせるのがうまい人物だった。彼は、十代の子供看守たちを相手に、日頃、これらの話をして聞かせていた。
 学校の教育も満足に受けたことのない子供看守たちにとって、彼の語りかける話は、新鮮で実に興味深い内容だった。子供たちは、目を輝かせて彼の話に聞き入っていた。囚人全員を殺せという命令が来ても、殺してしまうのは、もったいないと考えた子供看守たちは、あえて彼を生かしておいたのである。
ツールスレンにあった監獄、ここで多くの人間が殺され、ほとんどが生還しなかった。
 ある男が痩せた犬を殺してその肉を食ったことがあった。男は翌日、少年兵士たちに連行され、犬の肉を食ったという罪で拷問を受け、銃の台尻で殴り殺された。
 流行歌を歌っただけでも殺された。歌いたい時は、回りに誰もいないことを確認して、こっそり歌わねばならなかった。もし子供や少年兵に聞かれでもしたら最後だった。有名な歌手や踊り子は、身元がばれ次第殺された。したがって、彼らは野菜売りだとか農民だったとかと偽って生き延びるしかなかった。

 ある踊り子は、過去を偽り、農作業やダム工事などに従事していた。彼女は、70年の大阪万博の際、特別公園したほどの舞踏の大スターだった。白魚のようになまめかしい細い指は、ひたすら荒れ土をいじったり、重い石を運び、砕いたりすることにのみ費やされた。飢えと疲労に悩まされながらも、生きるために必死になって慣れない重労働に苦闘し続けた。身元がばれそうになると、夜逃げを繰り返した。一度は、彼女の美しさに目をつけた革命幹部から逃れるために、弟を夫だと偽ったりしてかろうじて難を逃れたこともあったという。

 だが、ロン・ノル時代にすでに有名だった歌手には、もうどこにも逃げ道はなかった。
 多くのスター歌手や有名人は、ただそれだけで殺されたのである。
 ある女性歌手は、知っている歌を歌い続けろと命令されて死ぬまで歌わされたという話が残されている。彼女は歌う歌がなくなると同時に処刑されたのである。
 このような例を挙げると枚挙に暇ない。ポル・ポトが支配していた4年間は、まさに、このような行為が日常茶飯事に起きていたのである。民衆はポル・ポトに従うしかなかった。そして、彼の手先となって殺戮を繰り返す少年兵士に怯えた。彼らはほとんどが13才程度の子供で、徹底的な洗脳によってポル・ポトを神とあがなう狂信的集団に変化していた。命令があれば肉親でも殺せる集団でもあった。
 この地獄は丸4年間続いた。しかしポル・ポトが政権を握って、4年目になろうとする頃、ベトナムとの戦争も最終局面を迎えていた。ポル・ポト打倒を目指すカンボジア救国民族統一戦線がハノイで結成され、この中には、仏教徒代表など知識人を代表する数多くのメンバーも顔を揃えていた。彼らは、最後の決着をつけようと、大規模な攻撃を画策していたのである。

 1978年も終わる頃、ベトナム軍は15万の大軍で、あらゆる方向から侵入して来た。ベトナム軍の進撃の前に子供兵士の多いポル・ポト軍は、とても持ちこたえることが出来ず、カンボジア国内の大部分は、たちまち占領されてしまった。侵攻開始から2週間目、1月6日には、早くも首都プノンペンが包囲され、翌日にはあっけなく陥落してしまうほどだった。

 その後も、クメール・ルージュは、森の中で、ゲリラ戦を続けていくことになるが、恐怖の大量虐殺に終止符が打たれたのはこの頃であったと言われている。

* 地獄を生き抜いた少女の話 *
 ここに、この地獄を生き抜いた一人の少女の体験がある。彼女はその時まだ5才だった。多情多感な彼女にとって、ポルポト時代のカンボジアはどう映っていたのだろうか? 
 その少女の仕事は、毎朝、川に水を汲みに行くことだった。その日も、バケツを二つ交互にぶら下げた棒を肩に担いで、川岸に来たところが、彼女より少し年上の女の子が腰に手をあてて困ったようなしぐさで、少し離れた川岸を棒でしきりにつついているのが見えた。近寄ってよく見ると、女の子が棒でつついているのは、浅瀬の茂みに引っ掛かっている死体だったのである。それは、大人の男の死体で、死後かなりの時間が経過しているのか、腐乱して驚くほど膨張している。黒い服から出た手足は、白いゴムのように光り、膨らんでいる。その死体は、川の流れに揺らいでいたが、ズボンが浅瀬の小枝に引っ掛かって流れずにいたのである。女の子が棒を突く度に、死体は、ゆらゆらと上下に揺れて波紋が広がるが、一向に動く気配がない。「死体から出る汁がバケツに入るから流してしまいたいの」と女の子は言うのである。結局、二人は相談して、一斉に頭と胴体を押すことで、その死体を流すことにした。それは、うまくいったと見えて死体は、黒い髪をくゆらせながら、ゆっくりと下流に流れて行った。少女は吐き気が込み上げてくるのを堪えてその場を離れたが、目に焼き付いた光景は、その後、何十年も悪夢に出て来ることになった。
 労働キャンプでは、決定的に食料が欠乏していた。飢えと恐怖が人間を敵同士にし、あさましいものに変えていった。どこを探そうが食べる物などどこにもなかった。栄養失調からくる胃の痛み、関節痛、疲労感が家族全員を襲った。母は、お腹が減ったと言って泣き続ける弟を胸に抱きしめている。まだ3才だった弟はすっかり痩せてしまい、ほほ骨が突き出している。ふっくらとしていたほっぺたは、今では骨に皮が張りついているだけで、つぶらな瞳は、輝きを無くし飢えのためにどんよりと曇ってしまった。
 少女は、家族のために食べ物を探しに行かなくてはならなかった。茂みでカエル、コオロギ、バッタと食べられるものは、何でも捕まえようとするが、小さくて体力がなくて動作ののろい彼女には捕まえることは出来ない。ある日のこと、一人のおばあさんの横にお握りが置かれているのを見つけたことがあった。おばあさんは、小柄で白髪が頭にへばりつき、胸で苦しそうに呼吸をしていた。少女は胸をどきどきさせながら、おばあさんの後ろに近寄ると、さっとそれをつかんでポケットに入れた。そして足早にその場を去った。ポケットにお握りの重さを感じながら。一人になって取り出したお握りは、こぶし大の大きさで、それを見つめていると、さきほどのおばあさんを思い出して胸が痛んだ。おばあさんは、きっともう、代わりのお握りがもらえないだろう。彼女はそう思うと涙がボロボロ出て来た。目の前の景色が涙でグニャグニャになった。お握りを口に運んだが、同時にしょっぱい涙が口の中に流れて来るのを止めることが出来なかった。
 1978年頃になると、粛清がさかんに行われるようになった。虐殺は、無差別化し、少しでも疑われると一般農民でさえも殺されるようになった。少女の母と3才の弟も、この時、クメール・ルージュの手にかかり殺された。
 その日、少女の母と3才の弟は、20人ほどの村人とともに連行され、泥の中にひざまずかされた。横にいた男は、恐怖のためにその場にうずくまり失禁してしまった。泣き叫ぶ小さな弟は、兵士によって無理やり母から引き離されてしまった。必死になって泣き叫び、命ごいをして立ち上がろうとする村人に、突然、ライフルの音が響き渡った。静寂が一瞬訪れた。弟が、泣きながら泥に顔を埋めてうずくまる母のもとに走り寄って来る。何が起こったのかわからない弟は、母親の名を呼びながら、懸命に肩をゆすり、ほほや耳にさわり、最後は髪をつかんで泥から顔を起こそうとするが、力が足りない。何度か繰り返すうちに、小さな手に母の血がべっとりとついた。数秒後、その弟も撃ち殺され、もう悲鳴を上げる者はいなくなった。
 1979年1月、ベトナム軍が首都プノンペン攻略を開始すると、クメール・ルージュは、山間部に敗走した。こうして、丸4年クメール・ルージュの手にあったプノンペンは解放されたのである。まもなく、ベトナム軍が、全国にあった強制労働キャンプを解体し始めると、ようやく人々に生きる希望が戻って来た。
 少女は、その後、一番上の兄とともに、アメリカに行くことを決心した。戦火で荒廃したプノンペンから、密かに船でメコン川を下り、無事にベトナムにたどり着くことが出来たのである。そして、彼らはサイゴンで数カ月を過ごした後、闇にまぎれ、航路でタイに逃れたのである。途中、サメの恐怖や海賊の襲撃で、身に付けていた父の最後の形見すらなくしてしまったが、かろうじて難民キャンプにたどりつくことが出来たのであった。
 幸運にも、身元引受人が見つかった彼女は、兄とともにアメリカに渡り新しい人生を歩み出すことになった。
 35年経った現在、彼女は世界の各地で平和を訴え、地雷廃絶キャンペーンを続けている。
 彼女の体験を綴った著書「最初に父が殺された」には、両親、姉、幼い弟などを次々に殺された深い悲しみが込められている。
 しかし、その悲しみを乗り越えて、勇敢に生き抜こうとする不撓不屈の精神は、多くの人々に深い感銘と感動を与え続けている。
あの時の少女は大人になった。アンコールワットで物売りの少女とともに。
「最初に父が殺された」より
* 悪夢のつめ痕 *
 20世紀には、確かに驚くほど多くの革命があった。しかし、どのような革命も、カンボジアで起きた悪夢には及びようがない。これほどまでに異常な革命は世界史上類を見ない。一人の男が描いた稚拙で愚かな夢が、権力を掌握した時、それはただの夢ではなくなった。「まさか? 本当に? どうして?」と誰もが思う信じられないことが、実際に起き、実現されたのだ。

 あれから35年が経った。しかし内戦の傷跡は、いたるところに残されたままだ。農村は、荒廃し、未だに立ち直りのきざしさえ見せてはいない。内戦の負の遺産とも言われる数千万個の地雷は、いたるところに埋まったままである。街では、片手片足をなくした幼ない子供たちをよく見かける。彼らは地雷や不発弾のために、片手片足を無惨にも吹き飛ばされたのだ。しかし、満足な義足や義手もないというのに、松葉づえや代わりになる棒を器用に使い、家事や靴磨きなどの仕事に懸命に励んでいる子も多い。

 あなたがこの時代のカンボジアに生まれていたら、これはあなたの歴史になっていたかもしれないのだ。
 イデオロギーの持つ力は、どんなに愚かしく思えることでも可能にしてしまう。それが狂気と結びついた時、計り知れない悲劇が起こるのだ。
 ポル・ポトはそれを証明して見せた。
人間の尊厳とは何なのか? 命の尊さとは? 自由とは? 平等とは?
ツールスレンの監獄で虐殺された人々
・・・犠牲となった多くの人々は、もはや何も語ってはくれない。

 うず高く積み重ねられた白骨の山を目前にする時、人間がどうしたらこんなに残酷になれるのか、私たちは問わずにはいられない・・・

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30年前に行われた悲劇と、人間同士の争いは当事者以外の無関係な人々も巻き込み続ける
という事実をより多くの人に知ってほしいと願ってつくられた野豊さんのサイトです。
当時の写真がたくさん見られます。
画像資料 「最初に父が殺された」ルオン・ウン 小林千枝子訳 無名舎  口絵
参考文献 「ポル・ポト<革命>史」山田寛 講談社選書メチエ
「最初に父が殺された」ルオン・ウン 小林千枝子訳 無名舎  
「カンボジアの苦悩」永井浩 勁草書房(けいそう)
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